昭和53年12月15日 朝の御理解
御理解 第46節
「痛いのが治ったのでありがたいのではない。いつもまめながありがたいのぞ。」
痛いのが治ったのも、やっぱり有り難い、間違いないですけれども。それよりも、もっと有り難いのは、いつもまめなのが有り難いのぞと。ね。痛いのが治った、おかげを頂いて、やはり有り難い。ね。有り難くないというのではない、次の本当の有り難いが、本当の有り難いとして分からせることのために、こういう表現をなさっておられるんだと思うです。ね。いつもまめなのは、もっと有り難いんだよ、と。だから信心とはそこが分かる事じゃないでしょうかね。
ところが、なかなか平穏無事であると、それが有り難いということになって来ない。もう当たり前。ね。その当たり前というところには、有り難いという心も何も生まれません。昨日綾部さんところの霊祭であちらへ、日田に参りました。あそこへ私が書いてある色紙がかけてございましたが。礼を言う心が和賀心か。何かそう言う様な言葉、自分で書いとるとに忘れとるですけども、何か書いてありました。ね。その礼を言う心が、そのまま例えば和賀心であると。ね、痛いのは治ったから有り難いとお礼を言う。
これはまぁ当然の有り難いですわね。何かをもろうて有り難い。だからそれではなかろうごとある、今日の御理解のところ。ね。もう当たり前のことのように思うておったことの中に、ね、痛いのが治ったのより、より有り難いんだと分かってお礼が言えた時、言える時、私は和賀心、和らぎ賀ぶ心というのは、そういうことだと。それは例えば、何かをもらうとか、痛いのが治って有り難うございました、とお礼を言う心も、決してこれは良くない心ということじゃない、やっぱ嬉しいから。
けれどもこれは当然のことでしょうが。ね。何かもろうたから有り難うございます、と言うのは当然なこと。けれども、ね、いつもまめなのが有り難いのぞ、ということが分かった時。ね。今まで当然のように思うておった。今月今日こうやってお生かしのおかげを頂いておる。ね。これはもう当然のことのように思うておった。痛いとこもなからにゃ、痒いところもない。ね。
当たり前のことのように思うておった、その当たり前のことのように思うておったことの中に、心から本当におかげを頂いて有り難いなあ、とお礼を言う心。成程これなら、私は和賀心であろうと、こう思うです。ね。そんなら例えばお話をこうやって頂きますと、ほんに、それは先生が言われる通りだと。いつもまめなのが有り難いのだ。本当にこうやって毎日お参りでも出けておるということは、これより有り難いことはないんだ、と分かりますよね。そうだと分ります。
分かりますけれども、それが和賀心まで高められておるかどうか、ということです。本当にそのことに対して、お礼が言えれるという時に、初めてそれが和賀心であると。もうそこに和賀心にと。ところが私共が例えば話を聞いて、成程そう言われりゃ、そうどこじゃない。いつもまめなのが有り難いのだ、という有り難いのとはちょっと違う。ね。それが絶えず言うなら、妙なるまでの賀ぶ。
ここの世界は私は本当に信心を深く、言うならばお徳を受けて行かなければ、そういう和賀心に通ずるような、有り難いということには、なって来ないのじゃないだろうかと、こう思う。ね。何かもろうたから、有り難いとお礼を言う。痛いのが治ったから、有り難いなと思う。しかしこれは当然のことだと言うのです。けれども教祖は、ね、その有り難いよりも、いつもまめなのが有り難いのぞと気付かせ、なら気付いただけではなくて、その有り難いという心が形の上に現される。ね。
今日もお生かしのおかげを頂いておる。家にジッとはしてはおられない。ね。そういうものを、私は感じた時に、有り難いという心こそ、和賀心に通ずるのではなかろうかと思います。ね。昨日午後の奉仕をしておりましたら、西岡先生が、それこそ涙を浮かべてお礼を言われるんです。それがそのどういう事かと言うと、只今あの私のところに用があって、光昭先生がお出でられました。
ほれで私の部屋の障子の前で、パンパンと拍手がしたから誰じゃろうかと思うたら、その、光昭先生が私の部屋に入って来られる前に拍手をされた。ここへ入って来る人が、拝んで入ってくるというのに初めて触れた。もうとにかくどうにも仕方がない感動が、わざわざそのことをお礼に見えたね。形のことなら誰でも出けますね。最近光昭の信心を見ておりますともう本当に、そう拍手せずには入られない。そういう内容がある。言うならば、今日の御理解から言うとです、いつもまめなのが有り難いのぞと。ね。
今までは、当然のことのように思うておった。ね。御理解を頂くとここに行きゃ、分かることだけは、はっきり分かる。成程痛いのが治ったのが有り難いのではない、いつもまめなのが有り難い。はぁそうどころじゃないですね、と分かる。ね。ところがならいつもまめであるという事は、言うなら暴虐してしまって、何かちょっと困ったことがある事だけで、心が捕らわれてしまっておる。
もう最高の有難いものを頂いておるのに、その有り難いもので、ちょっとした難儀なことやらを消すことも出けない程度の有り難さである。ね。もうこれほど有り難いことはない。ね。それを有り難いと分からせて頂く。当然のことのように思うておった事の中に、有り難いというものを感じさせてもらう。ね。何かをもろうて有り難い、これは当然のこと。ね。ところがね、当然のことと思うておったことの中に、ね、それよりももっと有り難いのぞと気付かせてもらい、分からせてもらう。ね。
そこには次の衝動がある。その有り難いというものは、もうきついとか苦しいとか、難儀と言った様なものは、その有り難いの前には消えて無くなる。そういう心でお礼を言う時、または、行動に現される時に、ね、それがなら本当のいわゆる和賀心に繋がる。礼を言う心がそのまま、和賀心である。ね。なら皆さん、まぁそういう事柄だけは分かって下さらなければならんのですけれども。それが本当にその実感としてね、それこそ妙なるまでに今日、言うならまめであるということ。
平穏無事であるということに対して、そのお礼が言えれる、その有り難いと言った様な信心がです、こう日常の生活の中に、生き生きと瑞々しいまでに盛りあがって来る賀び。そういう時に、一つの衝動のような、ね、賀ぶの衝動とでも申しましょうか。ね。障子一つ開けさせて頂くでも、前に言うなら拍手をせずにはおられないと言う様な心。その拍手は、なら西岡先生をして、ここまでお礼にわざわざ出て来らせるだけの感動を、向こうに伝えておる。ね。
有り難いということの前、本当の意味においての有り難いということ。それがなら和賀心であるならば、成程おかげは和賀心にありという事が分かるでしょう。ね。和賀心の前には、もうそこに言うならば霜であろうが、雪であろうが、それを溶かしてしまうだけの、言うならば、内容というか、ね、温かみというか、熱というか、ね、そういうものがあることが、分かりますでしょう。ね。そこでねこれはもう一遍どん聴いたから分かったからで、分かるこっじゃないです。
もうそれこそ、そういう信心が繰り返し繰り返し、日々私共の信心の血にもなれば、肉にもなって来るという、ね。いつの間にこういう風に有り難くなって来ただろうか、と言う様にです、ようなものだと言う事なんです。実際に一遍にそれを自分の身につけると言う事は出来ない。昨日の朝の御祈念の後に、北野の秋山さんがお礼お届けをなさっておられます。あるまぁ普通で言うなら、難儀な問題とでも申しましょうかね。長男、光行さんというのがこの頃から、まぁ大変おかげを頂いて具合良う行きよった。
それがその又元に返った様な状態が見える。ほれでそこまでお届けされましたから、私もついうっかりとね、もう本当にその性懲りもなしにのち申しました。ね、そんなお届けをされましたから、本当に性懲りもなしのや、又のとこう私がということを申しましたら、すぐその後に秋山さんが言われることですもん。そのことを昨日、誠治に話しましたち。いわゆる秋山先生ですよね。そしたら誠治が申します事がです、ね。
「神様がね、秋山の家におかげを下さろうとする働きが始まった」じゃったかの。(秋山さん、私にかけられている神様の願いが成就)あぁそうそう。秋山の家にかけられておる願いが、お母さん、就しよるとばいち言うたんです。もう私もね、もうまたのち、これはもうどこまでも人間的な返事です。ね。また家の息子が失敗しました、とこう言うでしょう。またやちこう言うのはね、もうこれ普通人間的なこれは挨拶です。ね。ところが、誠治くんはそれを聞いた時に、どう言うたかと言うと、ね。
秋山の家にかけられておる願いが、ね、そういう形で成就して行っておるんだと、もう、まさにその通りなんです。もう合楽の信心のギリギリの分かるとこは、ここなんです。ね。私の方が十分分かっておるんだけども、その秋山さんのそれに対して、人間的に、ほんに、性懲りもなしのと、こういやそれこそ、本当に恥ずかしいごたる感じがする。それを、誠治くんはどう受け止めておるかと言うと、秋山の家にかけられた神様の願いが、お母さん成就しよるとばいち。
ほんなこつ、もうお礼申し上げるより他の、ということになって来た。んなら彼がお道の教師を志させて頂いて何年間。もうそのことだけを繰り返し繰り返し、頂きもする感じもする。問題の度にそれが、もう血に肉になって来とるんです。私は昨日、そのことを思わせて頂いたんですけども、信心というのは、いつの間にか本当なことを繰り返し繰り返し頂いておる内に、本当のことが血肉になってしまうんだな、ということを思いました。もう言うなら、誠治くんがその事をです、ね。
もうあらゆる角度、あらゆる事柄の中に、その生き方を本当に身につけて行ったら、いつ布教に出ても、人は助かると私は思うです。ね。そういう言うならそういう稽古をね、日頃、それこそ繰り返し繰り返ししておらなければね、今日私が皆さんに聞いて頂くような、いつもまめなのが有り難いのぞと分かって。その有り難いと感じた、その有り難いが和賀心にまで通ずるというほどしの事にはなって来ない、ということ聞いたから分かった。ね。一遍行じたからそれで自分のものになった、というものではない。
繰り返し繰り返し、本当なことを本当なこととして分かって、ね、いわば痛いのが治った時に、お礼を申し上げるのは、もうこれは当たり前のこと。何かをもらった時に、有り難うと言うとと同じこと。ね。けれどもその有り難いで止まってしまって、もっともっと大きなものに気付かずに、ね、まめであるという、今日も平穏である、無事であるということに対してそれよりも、もっともっと数倍の有り難さというものが頂かなければならんのに、そのことはもう当たり前のように思っておる。
だからそれは当たり前の様な事ではないぞ、それの方がもっと有難いのぞ、と教えてもらうと、「はぁほんにそうですね」と分かるのだけれども、分かっただけでは和賀心には通じないと言う事ね。それが和賀心にも通じる通うような、有り難いという事になる時に、四十六節である。いつも私の心の中に信心の徳というものが、こう妙なるまでに心に頂き、感じられておる時。本当のことが分かって本当なことが、ね、それこそ「お母さん、秋山の家にかけられた神様の願いが成就しよる時ばい」。
と言う様な心の状態が開けて来る。そこから私は人に、言うなら感銘というか、感動を与えるほどしの、人が助かるほどしの働きというものは、そこからでなからなければ、本当の自他共に助かると言った様な道は開けて来ないと思う。今日はいつもまめなのが有り難い。もうそうどこじゃないすぐ分かる。それを本当に分かる。和賀心にまでも通じるような有り難いと頂かせてもらえれる、ということを今日は聞いて頂いたんですね。
どうぞ。